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広島地方裁判所 昭和61年(ワ)930号 判決

主文

一  被告は原告高橋裕美に対し、金五五〇万円及びこれに対する昭和六一年八月二八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告高橋裕美のその余の請求を棄却する。

三  原告高橋敦伸の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、原告高橋裕美に生じた費用と被告に生じた費用の二分の一をそれぞれ二分し、その一づつを原告高橋裕美と被告の負担とし、被告に生じた費用の二分の一と原告高橋敦伸に生じた費用は原告高橋敦伸の負担とする。

五  この判決は、一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告両名に対し、各一一三四万五〇〇〇円及びこれに対する昭和五八年五月七日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告両名は、昭和四八年五月二七日婚姻した夫婦であり、被告は住所地において産婦人科医院を営むものである。

(二) 原告高橋裕美(以下、「原告裕美」という。)は、昭和五八年五月七日被告医院において第三子となるべき胎児(以下、「本件胎児」という。)を死産した。

2  経過

(一) 原告裕美は、本件胎児を妊娠したため、昭和五七年一〇月八日から被告医院において定期的に診察を受けてきた。分娩予定日は昭和五八年五月二一日であった。

(二) 原告裕美は、昭和五八年四月三〇日(以下、昭和五八年分については月日のみを記載する)、被告により診察を受けた際前置胎盤である旨告げられた。

(三) 原告裕美は、五月三日破水したと訴えて、同日午前四時頃被告医院に入院した。原告裕美は、入院後、陣痛促進剤の投与を受けた。

同日午後一時三〇分に原告裕美の体温は、三八度六分であった。そのため、布団を二枚掛けアンカを入れても寒気が抜けず、震えが止まらなかった。

同日午後九時には、原告裕美の体温は三七度五分に下がったが、午後一一時三〇分には、また三八度八分まで上がった。

(四) 同月四日、原告裕美の体温は、午前七時には三七度四分であったが、午後一時ころには三九度五分になった。同人は午後の診察のあと便所へ行ったが、その際、血の塊がドッと出た。原告裕美は、この日も陣痛促進剤の投与を受けた。同人の体温は同日午後四時には三七度四分、午後八時三〇分には三六度三分であった。

(五) 同月五日も、原告裕美には陣痛は無く、午後五時より陣痛促進剤の投与を受けた。この日、同人の体温は午前七時に三八度八分であったが、午後一時には三七度二分、午後九時には三六度三分であった。午後九時には本件胎児の心音は良好であった。

(六) 同月六日午前九時三〇分、被告が原告裕美を診察したところ、本件胎児は心音が無く、既に死亡していた。

(七) 同月七日、被告は帝王切開により原告裕美の胎内から本件胎児を取り出した。二九六〇グラムの男児であった。

3  被告の責任

(一) 過失ないし履行不完全の内容

(1) 前置胎盤の点について

(イ) 前置胎盤とは、妊卵が正常よりも下部の子宮壁に着床し、このため妊娠及び分娩時に内子宮口の全部または一部を胎盤が覆う状態をいうが、前置胎盤の場合、妊娠末期になり分娩が近づいて子宮口が開大し始めると、胎盤の早期剥離が起って大量の出血をきたし、放置すれば母児ともに生命の危険にさらされる。母体は出血と感染の危険を伴い、胎児は母体出血あるいは胎盤剥離のため循環障害による窒息を起こしやすい。したがって、出血が続く場合や胎児が母体外で生存できるまで成長している場合には、帝王切開術を行なうことにより早急に胎児を娩出させることが必要となる。

(ロ) 原告裕美の場合、前置胎盤のうえ大量の出血をしている。しかも、本件胎児は三八週に達しており、母体外で生存できる状態にあった。したがって、被告としては、母児の生命に重大な危険があると予想し、帝王切開術を行なう必要があったのである。ところが、被告は、漫然と陣痛促進剤を投与するのみであった。

(2) 前期破水の点について

(イ) 陣痛開始以前に、胎児、胎盤、臍帯、羊水を包んでいる膜(卵膜という)が破れて、羊水が流出する現象を前期破水というが、前期破水すると、破水の瞬間から有害な細菌の存在する膣内や外陰部と子宮内の胎児を取り巻く羊水とが連続するために、有害な細菌が子宮内に進入して胎児周囲の羊水に感染を起し、ついで胎児にも感染が及んで子宮内感染症を来し、ひいては胎児に重大な異常や死亡をひき起こす可能性がある。したがって、前期破水の場合、医師は、母体に対し適量の抗生物質を投与して感染症を予防するよう努めるとともに、定期的に血液検査や尿検査を実施して早期に感染症を発見し、胎児の生命に危険が迫っている場合には適切な処置をとる必要がある。そして、このさい、医師としては、胎児が母体外で生存できるまで成長している場合には、帝王切開術を行なうことを当然考えなければならない。

(ロ) 原告裕美の場合、前期破水を起して被告医院に入院し、感染による疑いのある高熱を発している。ところが、被告は原告裕美に対し、血液検査も尿検査も実施しなかった。すなわち、被告は、医師として当然念頭に置くべき感染症に対し全く配慮を欠いていたのであって、そのため、感染症による本件胎児の危険を早期に発見し、帝王切開術を行なうことにより本件胎児を救命する機会を逸した。

(3) インダシン使用の点について

インダシンは、母体に投与されると胎盤を通過して胎児に移行し、胎児の動脈管を収縮させる作用があり、ひいては右動脈管を閉鎖させて胎児死亡を引き起す副作用がある。したがって、産婦人科の専門医としては、当然インダシンを妊婦に投与することは避けなければならない。

ところが、被告は、妊婦である原告裕美に対し、漫然と、五月三日午後二時二〇分、同月四日午後一時三五分、および同月五日午前七時の三回にわたり、インダシンを投与した。

(二) 因果関係

(1) 被告は、原告裕美が前置胎盤であったことおよび破水により子宮内感染していたことの二つの理由により帝王切開を行なうべきであり、本件胎児は三八週に達していたのであるから帝王切開をして娩出しておれば胎児は生存できたにも拘わらず、これを怠り、前置胎盤による胎児循環障害ないし破水による胎児感染に因り、本件胎児を死に至らしめた。

(2) 本件胎児の死亡については、被告が原告裕美に対してインダシンを投与したため発生した本件胎児の動脈管閉鎖も一因となっている。

(3) なお、本件胎児が死亡した原因が、前置胎盤によるものであったか、前期破水による胎児感染であったか、あるいはインダシンが関与したか、いずれが原因かを明確にする必要はない。いずれが原因にせよ、本件胎児の死亡は昭和五八年五月五日夜から六日明け方にかけてであるから、それまでに分娩させておけば無事に産まれたと考えられるわけであって、それまでに帝王切開により早急に分娩を図らなかった過失(ないし履行不完全)と本件胎児死亡との間には相当因果関係がある。

(三) 債務不履行責任及び不法行為責任

(1) 被告は、原告裕美が被告医院に入院するに際し、原告裕美との間で、産婦人科医として最善の注意義務をもって分娩の管理・遂行にあたる旨契約した。ところが、被告は、適切な時期に帝王切開術を行なうことを怠り、これにより本件胎児を死亡させたのであるから、右所為は債務不履行にあたる。

(2) 被告の右所為は、同時に不法行為にもあたる。

(3) 原告らは、本訴において、右による損害賠償請求権を選択的に主張する。

4  損害

(一) 慰謝料

出産を心待ちにしていた原告らの落胆や悲しみは甚大であり、原告各自に対して一〇〇〇万円を以って慰謝するのが相当である。

(二) 逸失利益

本件胎児は、三八週に達しており、母体外で生存可能な状態にまで成長しており、出産が目前であったのであるから、出生後死亡した場合と同様に逸失利益の損害賠償請求権を認めるべきである。

零歳の男児の就労可能年数は四九年(ホフマン係数は一六・四一九二)であり、一八歳男子の平均年収は一八七万円(賃金センサス昭和六一年)である。生活費控除を三〇パーセントとして、後記計算式の通り計算すると、本件胎児の逸失利益は二一四九万二七三二円となる。

原告らは、本件胎児の取得した右損害賠償請求権を二分の一ずつ相続した。

(算式)

一八七万円×一六・四一九二×〇・七=二一四九万二七三二円

(三) 弁護士費用 二六九万円

被告の負担すべき弁護士費用としては、日弁連報酬等基準規定による手数料及び謝金の合計額金二六九万円(原告ら各自に一三四万五〇〇〇円)が相当である。

5  よって、原告らは被告に対し、右の慰謝料及び逸失利益のうちの一〇〇〇万円と弁護士費用一三四万五〇〇〇円との合計額である各一一三四万五〇〇〇円ならびにこれに対する死産の日である昭和五八年五月七日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(当事者)の事実中、原告両名の婚姻年月日は不知。その余の事実は認める。

2  請求原因2(経過)の事実中、

(一) 同(一)の事実は認める。

(二) 同(二)の事実は否認する。被告が告げたのは前置胎盤の疑いである。

(三) 同(三)の事実は認める。

(四) 同(四)のうち、血の塊がドッと出たとの事実は否認し、その余の事実は認める。出血は少量であった。

(五) 同(五)の事実は認める。

(六) 同(六)のうち、被告が原告裕美を診察した時刻については否認、その余の事実は認める。被告が診察したのは、午前九時ころである。

(七) 同(四)の事実は認める。

3  請求原因3(被告の責任)の事実中、

(一) 同(一)(過失ないし履行不完全)のうち、

(1) 同(1)(前置胎盤の点)の事実は否認し、注意義務の存在は争う。

原告裕美は、前置胎盤でなく、低置胎盤であった。

(2) 同(2)(前期破水による感染の点)の事実は否認し、注意義務の存在は争う。

原告裕美の発熱は、感染によるものではなく、腎孟膀胱炎によるものであった。

なお、子宮内感染が起こっているような場合には、むしろ帝王切開してはならない。

子宮内感染が起こった場合に帝王切開すると、子宮内のばい菌を妊婦の腹中にばらまくことになり、母体は腹膜炎等を起して非常に危険な状態に陥ることとなるので、帝王切開は避けるべきである。

むしろ、感染が起ったときは、帝王切開をせずに、陣痛誘発剤を使ってできるだけ早めに胎児を出すよう努力すべきであり、本件では、被告は、原告裕美に対し何度も陣痛誘発剤を使用して早めに本件胎児を出すよう努力している。

(3) 同(3)(インダシン使用の点)の事実は認めるが、注意義務の存在は争う。

(二) 同(二)(因果関係)のうち、

(1) 同(1)の事実は、いずれも否認する。

本件胎児は、前置胎盤により死亡したのではない。すなわち、前置胎盤の場合には、大量出血の危険性あるいは重度の胎盤剥離による胎児循環障害の危険性があることは確かであるが、本件では、原告裕美に大量出血はなく、また重度の胎盤剥離も起っていない。

また、本件胎児には子宮内感染はなく、胎児は破水による子宮内感染によって死亡したものでもない。すなわち、胎児が感染した場合羊水は黄色の膿のような羊水となるが、被告が本件胎児娩出のため五月七日帝王切開術を行なった際には、原告裕美の羊水は膿のような混濁を起していなかった。

本件胎児は臍帯巻絡によって死亡したものである。

(2) 同(2)の事実は否認する。

本件では、五〇ミリのインダシンを三回しか使っておらず、期間も短期間であり、使用料も少量である。また、インダシン副作用は、妊娠初期に考えられるものであり、末期における短期間少量使用の場合は副作用は考えられない。さらに、インダシンによる死亡例は、インダシンの長期使用により動脈管が収縮して肺の中の血圧が上がり、肺の中に血液が十分行かなくなり、生まれてから死亡に至るというケースであり、本件のように胎内で死亡するということは考えられない。

(3) 同(3)は争う。

本件では、本件胎児死亡後、被告が原告らに対し、本件胎児の病理解剖を強くすすめたにもかかわらず、原告らはこれを拒絶し、解剖が行なわれなかったという経緯があり、いわば原告らが本件胎児の死因の解明につき証明妨害を行なっているので、本件胎児の死因が不明であることにより被告に不利益に判断されることがあってはならない。

(三) 同(三)は争う。

4  同4(損害)の事実は、すべて不知。

原告らは、本件胎児の死亡について逸失利益を請求しているが、胎児に損害賠償請求権を認めた民法第七二一条の規定は、胎児が生きて産まれることを条件とするものであって、娩出時死産であった場合にまで損害賠償請求権の権利取得を認めるものではない。

原告敦伸の慰謝料請求権について、妊婦の夫は民法第七一一条の父に該当せず、よって原告らの主張を争う。

三  抗弁(不法行為責任の時効消滅)

(一)  原告らは、五月六日、被告医院における本件胎児の死亡の事実を知った。

(二)  本訴を提起したときは、右日時から三年を経過している。

(三)  被告は原告らに対し、平成元年五月一八日の本件口頭弁論において右時効を援用した。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1について

請求原因1の事実は、原告らの婚姻年月日を除き、当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、原告らは昭和四八年五月二七日婚姻した夫婦であることが認められる。

二  請求原因2(経過)について

1  請求原因2の事実のうち、(一)の事実、(三)のうちの破水の点を除くその余の事実、(四)の事実(ただし、出血量を除く)、(五)の事実、(六)の事実(ただし、診察時刻を除く)及び(七)の事実については当事者間に争いがなく、右事実に、〈証拠〉を総合すると次の事実を認めることができる。

(一)  原告裕美は、昭和五七年三月ころまでの間に二子を正常分娩したほか、自然流産一回、人工妊娠中絶一回の経験があった。

(二)  原告裕美は、本件胎児を妊娠したため、昭和五七年一〇月八日から被告医院で定期的に診察を受けており、同年一〇月二七日(妊娠三か月-一〇週)と昭和五八年二月二五日(妊娠七か月-二六週)にそれぞれ軽い風邪に罹患したほかは、四月二五日までの定期検診で異常を認められず、分娩予定日は五月二一日であった。

(三)  四月三〇日、妊娠一〇か月(三七週)の定期検診の際、原告裕美は三日前に少量の性器出血があった旨訴え、被告が内診したところ、外子宮口は一横指半開大し、先進部は児頭であったが内子宮口の右側に胎盤様の抵抗を認めたので、辺縁前置胎盤の疑いがあると判断し、原告に対し、少量の出血又は陣痛発作が来れば直ぐ入院するよう指示した。

(四)  五月三日午前四時前ころ、原告裕美は無色のぬるま湯状の分泌物が牛乳瓶に二本位出たので、従前の経験から、破水したと思い、直ちに被告医院に赴き、その旨を訴えて入院した。そのさい、診察した看護婦も羊水の流出を認めてその旨を看護記録に記載した。更に午前六時及び午前八時五分にも羊水が流出し、その旨が看護記録に記載された。午前一一時四〇分、被告が診察した際、外子宮口が一横指半開大し、先進部は児頭で内子宮口の右側やや上に胎盤様の抵抗を認めたが、本件胎児の心音は良好であった。原告裕美は午後零時ころ便所で血のかたまりを出し、そのころから陣痛誘発剤(プロスタルモンE錠)を一時間置きに一錠ずつ経口投与し始めた。午後一時三〇分発熱(三八度六分)し、布団を二枚掛け、アンカを入れても寒気が抜けず、震えが止まらなかった。原告敦伸は、看護婦の一人から早く手術してもらわないと原告裕美の身も危険である旨を告げられたので、被告に対し、帝王切開するよう申し入れたが、被告は「切るのはいつでも切れる」と言って応じなかった。午後二時二〇分より抗生物質(アンチバリン)、止血剤(アドナ、リカバリン)の点滴を開始し、また解熱剤のインダシン坐薬一ケ挿入し、経過を観察。午後五時三〇分陣痛発作六〇秒で三分間隔に発来するようになったが、午後一一時三〇分ころには悪寒、発熱があり陣痛はほとんど消失した。

(五)  翌四日午前七時、原告裕美の体温は三七度四分。午前一〇時一〇分陣痛が腹部緊満程度のため陣痛促進剤(アトニン0)を点滴静注開始。午後一時再び発熱(三九度五分)したため解熱のためインダシン坐薬を挿入。午後の診察後便所で血塊が出る。午後二時一五分外子宮口が二横指半開大し、胎児の先進部は足又は腕であり膣内には少量の血塊を認めた。この時点の本件胎児の心音は良好。午後二時三〇分抗生物質(アンチバリン)の点滴静注を開始。なお、被告は、発熱は腎孟膀胱炎症によるものと判断し、その治療のために抗生物質(サワシリン)、消炎剤(ターゼン)を朝から施用。

(六)  翌五日午前七時再び高熱(三八度八分)が生じ、悪寒、頭痛があり、インダシン坐薬一ケ挿入。午前八時一五分抗生物質(アンチバリン)の点滴静注を開始。午後一時体温は三七度二分となり、子宮口の開大、軟化及び胎盤圧迫の目的でメトロイリンテルの挿入。この時点の本件胎児の心音は良好。午後五時陣痛誘発剤(プロスタルモンE)の服用開始したが陣痛発来に至らず。時々少量の出血あり、午後九時体温三六度三分。午後一〇時プロスタルモンEの服用を終了。

(七)  翌六日午前九時回診時本件胎児の心音聴取不能となり、超音波診断装置にて本件胎児心拍の拍動消失を認め、体内死亡と診断。この時点外子宮口は三横指開大、先進部は児頭で陣痛はほとんどなかった。午後二時三〇分死亡した本件胎児の経膣分娩を行なうため陣痛促進剤の点滴を開始。午後五時五分陣痛発来したが、原告らが帝王切開による死亡胎児分娩を希望したため、陣痛促進剤の点滴を中止。

(八)  翌七日午後一時腹式帝王切開術により死亡した本件胎児(男児二九六〇グラム)を娩出。侵軟[1]度で、胎盤が一部剥離していた。

(九)  原告裕美は五月二〇日に被告医院を退院したが、そのころ、被告は、原告裕美の症状について、診療録に、前期破水、前置胎盤、腎孟膀胱炎と記載した。

2  以上の認定に反し、被告本人の供述中には、原告裕美は前置胎盤ではなく低置胎盤にすぎなかった旨及び破水していなかった旨の部分があるが、他方では、原告裕美が退院するころ、被告自ら、診療録に前置胎盤、前期破水と記載したことを述べているのであり、右1認定に反する供述部分はにわかに措信しがたく、他に1認定を覆すに足りる証拠はない。

三  請求原因3(被告の責任)について

1  (過失について)

(一)  〈証拠〉を総合すると、前置胎盤及び前期破水の各定義、処置方針等について請求原因3(一)(1)及び(2)の各(イ)のとおり説かれていること並びに前置胎盤には、子宮口全体を胎盤がおおっている全前置胎盤、子宮口の一部分を胎盤がおおっている一部前置胎盤、子宮口のほんの辺縁にだけ胎盤がかかっている辺縁前置胎盤とがあること、前置胎盤の場合においては、母体から重篤な出血が発来した場合で胎児が三七週に達しておれば、帝王切開術によって娩出させることが適切であるとされていること、前期破水後に、胎児が細菌感染をしていることを疑わせる徴候として、破水後二四時間以上経過している場合や母体が三八度以上の発熱を起こしている場合等が挙げられていることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(二)  前記二認定事実によると、四月三〇日には、少なくとも辺縁前置胎盤の状態にあったうえ、五月三日には午前四時、六時及び八時ころにそれぞれ前期破水をしたうえ、高熱や血塊を出し、翌四日も同様な状態が続いており、細菌感染症の発生が充分考えられたのであり、また胎児はすでに三八週に達しており、母体外で生存できる状態であったのであるから、被告としては、胎児の生命の安全を考え、遅くとも四日の時点では帝王切開によって胎児を娩出させる注意義務があったものというべく、これを怠った被告には過失があったといわざるを得ない。

この点について、被告本人の供述中には、子宮内感染が起っている場合には、むしろ帝王切開をしてはならない旨の部分があるが、三1(一)冒頭掲記の証拠に対比して採用できない。

(三)  なお、原告らは、被告の過失として、インダシンの使用についての過失を主張し、〈証拠〉によると、近年インダシンが胎児に対して悪影響を及ぼすおそれがあるとの医学上の報告が多数なされている事実が認められるが、他方、〈証拠〉によると、インダシンの使用は臨床的には障害を認めないとの報告例もある事実が認められ、〈証拠〉をもってしては、少なくとも昭和五八年五月の本件事故当時において被告にインダシンの使用を回避すべき注意義務があったことを認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

2  (因果関係について)

(一)  前期二及び三l(一)の認定事実を総合すると、本件胎児の死亡は、前置胎盤による大量出血ないし胎盤剥離に基づく胎児循環障害によるものか若しくは前期破水に伴う細菌感染症に胎児が罹患し、それによる死亡と推認することができる。そして、四日の時点では本件胎児の心音は良好であったのであるから、若し被告が前記注意義務を尽しておれば、特段の事情のない限り、本件胎児は無事出生したものと推認でき、従って、被告の前記過失と本件胎児死亡との間には相当因果関係を認めることができる。

(二)  被告本人の供述中には、帝王切開して胎児の頭を引っ張り出す際に、肩にかかっているのが見えたので、本件胎児の死亡は臍帯巻絡によるものではないかと思う旨の部分がある。しかし、他方、同供述によると、臍帯が首に二回、三回と巻いていたわけではないというのであり、〈証拠〉によると、右の程度の臍帯巻絡によっては胎児死亡といった事態は生じ難いことが認められるので、右被告の推測は採用し難い。

また、被告本人の供述中には、帝王切開した際、胎児が感染していた場合には黄色い膿のような羊水が出てくるが、本件では暗緑色の羊水であったから胎児が感染していなかったと思う旨の部分があるが、他方、同人の供述中には、膿が出てこなくても感染を起していないとはいえない旨の部分もあることに照らしても右被告の推測も採用できず、他に(一)の推認を左右するに足りる証拠はない。

3  (適用法条)

(一)の債務不履行について

(1) 原告裕美と被告との間に、その主張の診療契約が結ばれたことは同原告が被告医院に入院したことにより明らかであり、被告は同原告に対し、民法四一五条により胎児の死亡の結果同原告が被った損害を賠償する義務がある。

(2) 原告敦伸と被告との間には、診療契約を結んだことを認めるに足りる証拠はないから、同原告に対しては債務不履行による請求権を認めることはできない。

(二)  不法行為について

抗弁(不法行為責任の消滅時効の抗弁)の(一)の事実は、原告らにおいて明らかに争わないので自白したものとみなされ、同(二)及び(三)の事実は当裁判所に顕著な事実である。

そうすると、原告らの不法行為に基づく損害賠償請求権は時効により消滅しているというべきである。

四  請求原因4(損害)及び遅延損害金について

1  慰謝料

〈証拠〉によれば、原告裕美は本件胎児の出産を心待ちにしていたことが認められ、胎児の生命を失ったことにより原告裕美が精神的苦痛を受けたことは容易に推認できるところであり、二で認定した原告裕美の入院後の経緯など諸般の事情を考え合わせると、原告裕美の右苦痛は五〇〇万円をもって慰謝するのが相当と認める。

2  逸失利益について

原告らは、本件胎児についての逸失利益を相続した旨主張するが、胎児である間に生命を失った場合には胎児を被相続人とする相続ということは考える余地がなく、また、本件においては不法行為に基づく損害賠償請求権は既に時効によって消滅していることは前説示のとおりであるから、右いずれにしても、その余の点については判断するまでもなく逸失利益についての請求は認めることができない。

3  弁護士費用

本件事案の内容、審理経過、認容額等に照らすと、原告裕美が被告に対して本件による損害として賠償を求めうる弁護士費用の額は五〇万円とするのが相当である。

4  遅延損害金

債務不履行に基づく損害賠償請求は期限の定めのない債務であり、債権者から履行の請求を受けた時に履行遅滞となるところ、本件において訴状が被告に送達された日の翌日である昭和六一年八月二八日であることは記録上明らかである(右以前に履行請求をしたことの主張立証はない)。

五  結論

以上の次第で、原告裕美の本訴請求は、五五〇万円及びこれに対する昭和六一年八月二八日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるから認容し、その余は失当であるから棄却し、原告敦伸の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 出嵜正清)

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